太平洋戦争末期、航空機の燃料不足を補うために集められた松やにの大規模な採取跡が大津市と滋賀県栗東市に残っていることが、元中学校教諭眞田(さなだ)善之さん(62)=守山市=の調査で分かった。眞田さんは18日に栗東市内で調査結果を報告する。痛々しい傷跡が残る採取跡を「戦争の『負の遺産』として平和学習に活用してほしい」と話す。
終戦前、南方占領地を制圧され、石油の輸送路を絶たれた旧日本軍は、蒸し焼きにした松の根から採れる「松根油」に注目。1945年3月に「松根油等拡充増産対策措置要綱」が閣議決定され、全国で松の根が掘り起こされた。その後、採取対象は効率の良い松やにに移り、幹にのこぎりでV字状の傷をつけて集められた。
昨年3月、葉山中(栗東市)を校長で退職した眞田さんは、10月に長野県上田市で環境団体が松やにの採取跡を発見し、市教委と協力して「戦争遺跡」と位置づけ、説明看板を設置したことを知った。「滋賀でも同じ事実があるのでは」と調べ始めた。
生涯学習講座の高齢者に情報提供を呼び掛けるなどした結果、同11月、大津市南小松の近江舞子浜の松林に数十本から100本ほどの松やにの採取跡を発見。さらに、栗東市南部の金勝山の山中でも数十本を見つけた。実際に採取に関わった人に会うこともできた。
45年、当時の国民学校初等科3年だった栗東市荒張の山口重三さん(77)は大人が掘り起こした松の根をロープなどで縛ってトラックが通れる道端まで運んだ。松やにの採取には携わらなかったが、竹筒を傷の下部に当てて集めたと聞いた。「先生に言われるままにやっていただけで、疑問に思うことはなかった」と振り返る。松の根や松やには、旧栗太郡金勝村(現栗東市)にあった工場に運び込まれたという。
旧日本軍の燃料事情を記した書籍によると、採取には全国で1日に90万人が動員されたという推計もあるが、実際に航空機に使ったとの公式記録はない。眞田さんは「戦争を続けることのむなしさや国民総動員体制をつくった国のありようを、採取跡を見ることで考えたい。石油輸入を中東に依存している現代のエネルギー問題を考えるきっかけにもなる」と話す。18日午後7時半から、栗東市のコミュニティセンター金勝で開かれる「人権・同和教育巡回講座」で報告する。眞田さんはさらなる情報提供を呼びかけている。携帯電話090(8534)9258。 |