今が旬の湖西の不動産情報掲示板
古代日本人は懸命に模倣した…未知のルートで「ジパング」に渡った「銅剣」
2014年4月6日
 琵琶湖北西岸にある滋賀県高島市の上御殿遺跡(かみごてんいせき)で、弥生中期−古墳時代初め(紀元前4世紀〜紀元3世紀)の銅剣の鋳型が見つかったことが昨年発表され、考古学界に大きな話題を呼んだ。剣は理髪店のはさみのようなユニークな形で、中国・内モンゴルの遊牧民が使った「オルドス式短剣」とそっくりだった。銅剣の伝来ルートは、朝鮮半島経由で九州北部へというのがこれまでの定説だったが、オルドス式は朝鮮半島にも出土例がなく、国内ではもちろん初めて。このため、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた可能性が浮上した。はたして直線距離で900キロもの日本海を、当時の人々は渡ることができたのだろうか。

■長さ28センチ、モデルは中国の短剣

 《この海の向こうに倭人という種族がいるらしい。思いきって行ってみよう》

 「中国の人たちはこんな会話をしながら、『東洋のジパング』のイメージで日本海を渡ったのかもしれない」。弥生時代に詳しい兵庫県立考古博物館(播磨町)館長の石野博信さんは、こう想像する。

 見つかった鋳型は泥岩製。2枚一組がほぼ完全な状態で残り、鋳型から復元される銅剣は全長28センチ。中国からもたらされたオルドス式短剣をモデルに、鋳型を作ったようだ。

■日本海を渡った小舟の謎

 弥生時代中期以降の船は、丸木舟に波切(なみきり)板や舷側(げんそく)板を備えて強固にした準構造船とされる。

 「古代人は、自然の力を実にうまく利用した。風待ちや潮待ちをしっかりすれば、日本まで数日で着くのではないか」と石野さん。日本海の真ん中を突っ切るのではなく、朝鮮半島東方沖の潮流にのれば、山陰から能登半島一帯にたどり着くと指摘し、「現在でもエンジンを装備していない北朝鮮の小舟が日本海岸に漂着することを考えると、十分あり得る」と話す。

 大阪府立弥生文化博物館(和泉市)副館長の秋山浩三さんも「朝鮮半島の東方沖なら、難破することも少ないのでは」と、日本海を渡るのは可能だったとの見方だ。

 ただし、水や食糧補給のための港は必要で、石野さんは「定期ルートではなかった」と分析。調査担当の滋賀県文化財保護協会副主幹、中村健二さんも「日本海を直接渡るのは、やはり難しい。朝鮮半島ルートのように一般化せず、特殊なものだった」と推測する。

■近畿でも北部九州でもなく…意外な先進地

 半島経由の定期ルートと異なり、特異な日本海ルートが存在していたことは、各地の発掘結果も裏付ける。山陰から東北の日本海側には、弥生時代の中心地だった北部九州や近畿とは別に、大陸からもたらされた遺物の出土が意外に多い。

 邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が魏に朝貢したとされる「景初三年」の年号が記された銅鏡は、島根県雲南市の神原神社古墳で出土。長さ1メートル前後もある中国製の大刀「五尺刀」も、弥生末−古墳時代初めのものが福井や鳥取などで見つかっている。

 石野さんは「20メートル規模の小さい古墳に多く、日本海側の中小の勢力が大陸から入手したのではないか」と話す。

■重なる戦後復興の姿

 今回の鋳型について、滋賀県文化財保護協会はレプリカを作って銅剣の復元も試みた。ただし、鋳型がわずかにずれ、きちんとした銅剣を作れなかったという。剣にはつばがなく、刃も厚さ3ミリ程度と薄いため、実戦用ではなかったとみられる。

 「近江の人々は、中国からの渡来人が持っていた銅剣にあこがれ、見よう見まねで作ろうとしたのでは。涙ぐましい努力が伝わってくる」と石野さん。「新しいものを懸命に模倣しようとした姿は、戦後にアメリカのトランジスタラジオを作って復興を図ろうとした日本人の姿とも重なる」という。

 琵琶湖は、日本海と瀬戸内海、東国と大和を結ぶ交通の要衝だった。日本人が培った進取の気風は、文明の十字路ともいえる地に暮らした古代近江人に原点があったのかもしれない。

 「日本海側は古代から、とても元気だった」というのは、明治大学名誉教授の大塚初重さん。「弥生や古墳時代の文化や技術は近畿が中心で、地方は遅れて入ってくると教えられたが、そうではないことを改めて示した」と今回の発見の意義を語る。

 「いくら偉大な学説でも、新たな発見があるとその瞬間から見直さないといけない。これが考古学の恐ろしさなんです」。2枚の鋳型は、大和や北部九州を中心に考えがちな考古学に大きな一石を投じた。
産経新聞


HOME
Copyright (C) 2014 Shoei Real Estate Corporation. All Rights Reserved