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大溝城に船着き場か 琵琶湖から本丸へ、石垣に階段
2015年12月19日
 織田信長のおい信澄(のぶすみ)が1578(天正6)年に築城した滋賀県高島市勝野の大溝城遺跡で19日、本丸築城時の北と西の石垣が見つかり、東西規模が58メートルと分かったと市教育委員会が発表した。石垣には階段状の施設が付随し、琵琶湖内湖から直接本丸に上がれる船着き場の可能性があるという。

 11月中旬から、現在も残る天守台の北側と西側を幅3メートルの帯状に調査した。

 石垣は現在残る天守台から34メートル西と23メートル北で見つけた。過去の調査で本丸東端の石垣が見つかっていたが、本丸の他の外郭ラインにも残っていたことで、地下に良好な遺構が残っていることが分かったという。石垣は崩され堀に落ち込み、埋めた土に天正期の瓦が多いことや自然石を積む工法から、築城当初と判断した。中井均・滋賀県立大教授(城郭史)は「配下の工人が動員されるなど、信長の強い関与があったと考えられる」と指摘する。

 船着き場とみられる施設は北側調査区で見つかり、面を加工した石が整然とクランク状に屈曲し、一部が階段状に積まれていた。

 城郭に詳しい木戸雅寿滋賀県教委文化財保護課参事は「天守につながる本丸に直接上がれることから、城主の出入りが想定できる。琵琶湖の移動を強く意識した構造であることが鮮明になった」と話す。

 大溝城を描いた江戸時代の絵図には、方形の本丸を取り巻く堀が描かれており、石垣は絵図の通り見つかったが、船着き場は描かれておらず、中井教授は「階段かどうかも含め慎重な検討が必要」としている。

 現地説明会は23日午前10時半から。問い合わせは市教委TEL0740(32)4467。

<大溝城> 1578(天正6)年造営。明智光秀の設計と伝えられる。琵琶湖内湖の乙女ケ池を堀に活用した水城とされ、同様の水城の安土、長浜、坂本の計4城が等間隔に並ぶことから、織田信長が琵琶湖掌握のため、組織的に配置したことが指摘されている。城主の信澄は光秀の娘婿で、本能寺の変後に織田勢に攻められ大坂で自害した。
京都新聞


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